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不安な年の始まり

松田 昇

 

 今年の1月1日を、私はなんだか落ち着かない気持ちで迎えた。そして午後4時10分すぎ、私は自宅で去年とまったく同じシチュエーションで過ごしていて、徐々に不安が高まるとともに、その時間が何事もなく過ぎたことに安堵した。不思議な感覚だった。アニバーサリー反応(記念日反応)という言葉があるらしい。被害のなかった私でさえこうなのだから、被災した人たちはもっと不安に襲われていただろう。復興には心のケアも必要だと思う。

 1月1日とは比較にならないが、同じように不安を持って迎えた日があった。1月20日、アメリカ大統領の就任式の日である。こちらの場合は、”この日”ではなく”この日から”である。

 さっそく前政権で出された大統領令78件を取り消し、新たに30を超える大統領令が発せられた。政権が交代したのだから政策転換があるのは当たり前とも言える。しかし、4年前の議会襲撃事件に関わった支持者ら1500人に恩赦を与えたり、政府のキャリア職員の解職を容易にできるようにしたりする大統領令もあると知ると、自分の味方と敵をはっきりと分けて対応することのようだ。これは独裁への道である。

 目を隣の国に向けると、韓国では非常戒厳令を出した大統領が弾劾訴追を受け逮捕された。こちらは裏の事情がいろいろあるようだが、形として大統領の権限行使が止められた。

 この2つのできごとで思うのは、国という大きな組織が、一人の人間の考え(決定)で左右されてしまう仕組みが、それでいいのかということである。その国だけではなく世界全体にも、もちろん日本に住む私たちの生活にも影響してくるので、気が気でしかたない。民主的な選挙で選ばれたからといって、何でもしていいというわけではないだろう。19世紀の社会科学者トクヴィルは、「民主政治は専制政治につながる」と言った。多数を形成する勢力が、数にものを言わせて少数者の声を封じてしまうと、それは専制政治(全体主義)となるという。現代ではいわゆる「炎上」というのもこれにあたる。多数であるということと、正しいということは別のことなのである。